女神の旋律 第三章 その10
 ドアをぶち破って室内へ躍り込んだリュオの目に映ったのは、月明かりの中に浮かび上がるベッドの黒い人影と白い腕だった。
 カリルが何者かに襲われている。
 一瞬にして状況判断をすると、迷わずその影に向かって突進する。
 異変を察知した人影が振り返るのと、リュオが剣で人影の横っ腹を払うのはほぼ同時だった。
 助走による勢いも付加されて、振り払った剣は人影を横に飛ばす。
 どさりと崩れ落ちた影の肩をすかさず蹴って床に仰向けに押し倒すと、その鳩尾に剣先を押し当てて静止した。
 その瞬間、
 「リュオ! どうした!?」
 「カリル様っ!?」
 聞き覚えのある叫び声と共に、部屋が少し明るくなった。
 「セロイか。」
 声のした方を振り返ると、燭台を手にしたセロイの後に続いてスイランが飛び込んでくる。慌ててベッドに駆け寄るスイランを横目に、リュオは足元に転がる人影に目をやった。
 「お前……!」
 こちらへ近づいてくるセロイの持つ灯りに照らされたのは、黒髪を乱し、その端正な顔をしかめて息をつくシリアの姿だった。
 カリルのことを狙っている男。紳士的なのではなく下心を持っている男。
 「お前……カリルに何したんだ!!」
 セロイとの会話の断片からとんでもないことを想像してしまい、怒りのあまり押し付けた剣先に力がこもる。
 その圧力に顔を歪ませながらも、シリアは苦労して作った得意の笑みをリュオに見せた。
 「リュオさん、何か誤解があるみたいですね。」
 「誤解……!?」
 シリアはリュオの剣先を警戒しながらも、微笑を浮かべながらゆっくりと身を起こし床に座り込む。
 「リュオが何をどう誤解してるっていうんだ? 言ってみろよ。」
 若干笑いを含んだ声で、セロイがリュオの背後から問う。
 シリアはそんなセロイにちらりと視線をやると、依然厳しい表情で剣を突きつけてくるリュオに向かってにこやかに微笑んで答えた。
 「リュオさんは、私がカリルに無理矢理何かをしたとお考えなのでしょう? それは誤解ですよ。」
 「へえ……じゃあ、何してたんだ?」
 相変わらず押し黙ったままシリアを睨みつけているリュオの代わりに、セロイが問いかける。
 シリアも相変わらずリュオだけを見つめて答える。
 「私はカリルにただお願いしていただけです。私と結婚して欲しいと。……カリルもそれを喜んで受けて下さいました。それだけです。」
 そんな……!
 にっこりと自信ありげに言われた言葉に、リュオは何故か酷く衝撃を受けて瞳を見開いた。
 だが、直後に上がった叫び声によってそのショックはあっさりと消滅する。
 「何を言ってるんですか!!」
 それはスイランの叫び声だった。
 その小さな身体全体でカリルを守るように抱きしめたスイランが、見たこともないような恐ろしい形相でシリアを睨みつけている。
 「結婚!? カリル様がそれを受け入れた!? 白々しい嘘をつかないで下さい!!」
 平素怒りの表情を見せることのないスイランの剣幕に、リュオもセロイも驚いて言葉も出ない。
 「こんな……こんなふうにカリル様を傷つけることがプロポーズだって言うんですか!!」
 涙混じりの厳しい言葉と共に見せ付けられたカリルの手首には、首を絞められたかような痛々しい跡が残されていた。白い肌の中で、そこだけが生々しく赤く色づいている。
 それを見た瞬間、リュオの視界が真っ赤に染まった。
 自分でも気づかないうちに、左手で鞘を握っていた。
 「おい! ちょっと待て、リュオ!!」
 ぎょっとしたセロイが慌てて制止するが、リュオの耳には全く入らなかった。
 強い殺気を含んだ瞳でひたりとシリアを見据え、剣を抜き放つ。
 「リュオさん!? おおおお、落ち着いてください! こ、殺さないで……!!」
 余裕のなくなったシリアが、必死に腕を振りながら後退る。先程までの自信満々の笑みが、見る影もない。
 それも無視して剣を構えて斬りかかろうと踏み込んだリュオを、セロイが背後から抱きかかえるようにして止めた。
 「リュオ! 気持ちは分かるが少し落ち着け!!」
 耳元で大声で怒鳴られて、リュオは我に返った。
 珍しく焦った表情のセロイが、リュオにゆっくりと言い聞かせる。
 「いいか、確かに怒りに任せてあいつを殺せば少しは怒りが治まるかもしれない。でも、後で必ず後悔することになるぞ。死んだら謝罪もさせられないんだからな。」
 まだシリアを睨んだままだったが、リュオはセロイの言葉に納得して張り詰めさせていた身体の力を抜いた。
 ほっとしたようにセロイが拘束を解く。そして、リュオの横に回りながら話しかける。
 「分かったんだな? 言っとくが、俺はこいつを赦せって言ってるんじゃないぞ。ただ殺すな、と言ってるんだ。」
 セロイは、先程床に転げながら命乞いしたことなどすっかり忘れたかのように身を払いながらゆっくりと立ち上がるシリアを見て、更に続ける。
 「……殺して楽にしてやる必要はない、ってことだ。」
 ぎくり、と動きを止めるシリアを見て思いっきり嬉しそうににやりと笑う。
 そのいっそ禍々しいまでの笑みを目にして、リュオは思わず身震いした。
 「セ、セロイさん……?」
 同じく不安に駆られたスイランが、恐々セロイに話しかける。
 「スイラン、こいつの拷……尋問は俺に任せてくれないか? きちんと反省させて、必ず謝罪させるから。」
 一瞬浮かべた怖い笑みを瞬時に消したセロイにいつもと同じように話しかけられて、スイランはどうすればよいかわからずに救いを求めてリュオを見た。
 リュオは真っ青な顔をしてぶんぶんと首を縦に振る。「言うとおりにしてくれ」とその恐怖に満ちた瞳が語っていた。
 「は、はい……お願いします!」
 こちらもぶんぶんと首を縦に振って、逆らう意思のないことを強調する。
 それに満足したように微笑むと、セロイは恐怖に慄くシリアの腕を取った。
 「じゃあ行くぞ、シリア。じっくり自分のしたことを後悔させてやるからな。」
 「ちょ、ちょっと待って下さい! なななな何する気ですか!? リュオさん、スイランさん、助けてっ……!!」
 無様に悲鳴を上げるシリアを実に楽しそうに引きずって、セロイは部屋を出て行った。
 「あの、リュオさん、セロイさんは……?」
 「……何も聞かないでくれ。」
 スイランの発した疑問の声を遮って、リュオはきっぱりと言った。
 彼はその長い付き合いの中で、何度かセロイのあのサディスティックな笑みを見たことがある。そしてその後に起こることも。
 子供の頃セロイを激怒させたとある貴族の子息は、対人恐怖症になり今も自室から一歩も出てこないと聞いた。
 金を貰ってセロイを毒殺しようとしたシェフは、包丁を見ることさえ出来なくなった。
 泊まった宿屋で嫌がる女性を部屋に連れ込もうとしていた二人連れの男たちは、高熱を出しうわごとで「許してくれ」と叫びながら3日間生死の境をさまよった。
 だからリュオはセロイのセリフに隠された真の意味を悟っていた。
 「殺して楽にしてやる必要はない」は「死ぬより辛い目に合わせてやる」ということだと。
 そして、サドスイッチがオンになったセロイには決して逆らわない方がいいということも、経験から嫌と言うほど分かっていた。
 廊下を引きずられて行くシリアの悲鳴を押し出すかのようにドアをきっちり閉めると、リュオはとにかくセロイのことは考えないようにしてスイランに向き直った。
 「それより、カリルは……大丈夫なのか?」
 そっとベッドに歩み寄る。
 スイランに抱きしめられたカリルは、先程から一言も言葉を発していない。
 「大事はない……みたいです。たぶん精神的なショックが大きいのかと。」
 代わりにスイランが答える。スイランは俯いたまま少し沈黙し、続けた。
 「私がカリル様の反対を押し切ってこの部屋のソファで寝ていればこんなことには……リュオさんが気づいてくれて本当に良かったです。ありがとうございます。」
 「いや、まあ……偶然だけどな。オレもたまには役に立つな。」
 深々と頭を下げられて、ちょっと慌てるリュオ。少しはにかんで言ったセリフに、スイランも安心したように微かに微笑んだ。
 「……さて、カリル様。」
 暫くの沈黙の後、俄かに元気になって顔を上げたスイランが、カリルの背中をポンポンと叩いて話しかける。
 「もう夜も遅いですし、お休みになって下さい。嫌なことがあった時は寝るのが一番です。幸いあの男はセロイさんがきっちり落とし前つけてくれるみたいですし、今夜はリュオさんが見張りをして下さいますから、もう安心ですよ。」
 「えっ!?」
 またもや勝手に役割分担されて、焦って声を上げるリュオ。
 その時、カリルがスイランの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で小さく問いかけた。
 「……スイランは。」
 ずっと無反応だったカリルが喋った。驚いて瞳を見合わせるスイランとリュオ。
 スイランは思案するように小首を傾げていたが、くるりとリュオの方を向くとにっこりと微笑みかけた。
 リュオは途轍もなく嫌な予感がした。
 「私は、カリル様の代わりにセロイさんと共にあの男に制裁を加えてきます。それと、あの男のことを王妃様にお知らせして、厳重に処罰してもらうための手配もしなくては。」
 「えっ!?」
 「スイランもここに居てよ……!!」
 嫌な予感的中の展開に焦るリュオの耳に、カリルの悲痛な声が聞こえた。
 見るとカリルは顔を上げ、スイランを見上げて懇願している。その目は涙のせいで真っ赤に腫れ、不安に震えていた。
 スイランはその涙の跡のついた頬に片手を添えると、優しく、だがキッパリと言った。
 「それは出来ません。私にはやることがありますから。この部屋にはリュオさんが居ますから、大丈夫ですよ。何かあってもリュオさんが必ず守ってくれます。」
 「おい、スイラン……!」
 カリルの頼みを撥ね付けるスイランの言葉に、リュオが抗議の声を上げる。
 そんなリュオの様子を見て、スイランはリュオにずいっと顔を寄せると小さく囁く。
 「リュオさん、お願いします。……今のカリル様は凄く傷ついてます。私がお慰めすれば落ち着くでしょうが、それじゃダメなんです。」
 「何で……。」
 疑問の声を上げるリュオの言葉を視線で遮って、スイランはリュオの瞳をじっと見つめたまま続ける。
 「カリル様はずっと男性に夢を見ていたんです。でも現実の男性は強引で暴力的で怖いって知ってしまった。カリル様のことですから、このままほっといたらどんどん現実逃避してますます現実の男性に目を向けられなくなります。だから、このタイミングでちゃんと考えを修正しておきたいんです。」
 「それがオレと……。」
 何の関係があるんだよ、と言いかけて再びスイランに目で遮られる。
 「ですから、現実にはリュオさんみたいに人畜無害な男性もいるってちゃんと分からせておきたいんです。」
 「……。」
 瞳を潤ませて説得するスイランの言葉に、リュオは沈黙した。
 「だから、リュオさん。ここはお願いします。リュオさんにしか出来ないことなんです。」
 懇願されているのに馬鹿にされているような気がするのは気のせいだろうか。
 何だか適当なこと言われて言いくるめられているような気がするのは気のせいだろうか。
 きっと気のせいだ。
 「分かったよ……。」
 心の中に浮かぶ疑問を無理矢理押さえつけて、押しに弱いリュオはスイランの頼みを聞き入れた。
 「ありがとうございます。」
 にっこり笑って礼を言うスイランの表情が、上手く行ったとでも言いたげに見えるのもきっと気のせいだ。
 「じゃあ、カリル様。お休みなさい。リュオさん、よろしくお願いしますね。」
 口調がるんるんしてるように聞こえるのもきっと気のせい。
 リュオは次々に浮かぶ疑念を必死で振り払った。
 「スイラン、待ってよ……!」
 カリルがいつもよりずっと弱々しい声でスイランを引き止めるが、スイランはにこにこ笑ったままさっさと部屋を出て行った。
 「バカっ……!」
 振り絞るように悪態をつくと、リュオの方を見もせずに布団にくるまってしまったカリル。
 その様子を見て、スイランって結構鉄面皮だよな、とリュオは思った。
 そして、スイランの希望に沿うには一体どうすればいいのか考え……途方にくれた。
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