女神の旋律 第三章 その9
くそ……眠れねー……。
何十度目かの寝返りを打った後、リュオは諦めて身を起こす。
剣の手入れも終えてやることのなくなったリュオは、疲れていたこともありさっさとベッドに入った。
が、疲れているはずなのにいつまで経っても寝付けない。
あーもう、何で眠れないんだよ。
「セロイのバカ野郎……。」
こっそりと貶してみる。
気がつかない振りをしていたリュオだが、流石にこうまで眠れないと認めざるを得なくなる。
不眠の原因は先程のセロイとの会話だ。
「素直になってよく考えてみろ……か。」
ベッドの上で体育座りになって呟く。
素直にって言われてもなあ。素直になるとどうなるんだよ?
オレが……カリルを好きだってことか?
……いや、有り得ない!
心の中で強く否定してぶんぶんと首を振る。
残念ながら全く素直になれていない。
確かに見た目はいいかも知れないけど、あんなめちゃくちゃな女誰が好きになるかよ。
ぎゃあぎゃあうるさいし、自分勝手だし、我が儘だし、暴力的だし。
カリルが聞いたらそれこそぎゃあぎゃあ言ってきそうなひどいことを思っている。
大体あいつ、オレにばっかり突っかかってき過ぎじゃないか? 口を開く度に喧嘩してる気がする。
……あれ? あいつと喧嘩以外の会話したことあったっけ?
ふと、疑問が湧く。この数日間を必死で回想してみたが、普通の会話をしているところがいまいち思い出せない。
……本当にまともな会話が成り立ったことないかも。それはそれで結構凄いな。
普通では考えられないような状況に、リュオはちょっと可笑しくなってしまった。
よくよく考えて見れば、セロイ以外と言い争ったのなんて久しぶりかも知れないな。
と言うよりも、リュオの場合、セロイ以外と血の通った会話をすること自体が久しぶりかもしれない。
カリルはオレに何の先入観もないからな。同情も哀れみも蔑みもなく、ただ自分の感情を真っ直ぐにぶつけてくる。
魔術が使えないと判明してからそんな普通扱いすらほとんど受けていなかったリュオにとって、カリルのストレートな態度が新鮮で。
そしてちょっと嬉しかった。
……いやいや、待て。今のなし。取り消しで。
一瞬脳内をよぎってしまった変な感情を慌てて打ち消す。なんとなく物憂い気持ちになって深くため息をついた彼の耳に、微かな物音が聞こえた。
パタ、パタ、パタ、パタ。
「……こんな夜中に誰だ?」
階段を上がってきた足音がリュオの部屋に近づいてくる。
パタ、パタ、パタ、パタ。
なんか怪談みたいで怖いな。
なんてちょっと臆病風に吹かれている間に、足音はリュオの部屋を通り過ぎてピタリと止まった。
あーよかった。万が一お化けだったとしても、犠牲者はセロイかカリルだ。
……犠牲者?
自分を安心させたのはいいが逆にカリルのことが心配になって、リュオは剣を手に取りベッドから降りると部屋のドアをそっと2cmほど開けた。
隙間から恐る恐る覗くと、斜め向かいのカリルの部屋のドアがちょうど閉まるところだった。
カリルがトイレにでも行ってただけかな。
ドアを開けたついでにリュオもトイレに行ってみる。
自室に入ろうとしてドアに手を掛けたとき、何か声が聞こえた気がしてリュオは思わず動きを止めた。
カリルの部屋からだ。
何故か妙に心配になって、リュオは剣を握り締めてカリルの部屋のドアに近づく。
……いや、ほら、泥棒とかだったりすると危険だしな。
カリルの身を案じる理由を自分に言い訳をしてから、ドアに耳を当てた。
何だか素敵な人と結婚して白いお屋敷に住み、時には喧嘩したりもするけど最終的には仲直りして優しく抱きしめてもらえる、という妙に具体的な妄想が織り込まれた夢を見ていたカリルは、ふと変な感触を感じて覚醒した。何やら息苦しいような気分がする。目を開けた瞬間、目の前は異様なほど真っ暗で、脅えた彼女は思わず飛び起きた。と同時に何かにぶち当たる。
「んぎゃっ!」
「痛っ!」
自分の発した声以外に何か聞こえた。
何何何何何!?もしかして……誰かいるっ!
それが他人の声だと思い至った瞬間、カリルは思いっきり両腕を突き出していた。
「ぎゃあっ!!」
「うっ。」
それは紛れも無く男の声だった。
慌てて声がした方へ振り向く。
その視線の先には僅かに乱れた前髪を指でかき上げながら微笑むシリアの姿があった。
「な、何であんたがここにいんのよ!!」
驚愕のあまりブリッコするのも忘れて素で叫ぶ。とんでもない状況について行けず大混乱のカリル。
そんな彼女に向かって、シリアは昼間と変わらぬ穏やかな物腰で答えた。
「あなたのことを考えると眠りにつけなくて。その美しい顔を見たいという誘惑に勝てずに、こうして来てしまったのです。」
……まあ。
胸に片手を当ててどこかのバカ王子と似たようなセリフを吐くが、何故かシリアが言うとアホに聞こえない。
カリルもその甘い響きの言葉に素直に喜びそうになって、はたと気づいた。
ちょっと待って。
セリフだけ聞くとロマンス小説にでも出てきそうで素敵だけど、よく考えたらこいつ夜中にうら若き乙女の寝室に忍び込んでるのよ?
しかも……。
「あんた、私に、キ、キスしたでしょ!?」
人生二度目のキスも不本意に奪われて、あまりの理不尽さに怒りがこみ上げる。
あの息苦しいような感じ。唇に残る妙な感触。頬に感じた微かなくすぐったさは、彼の髪が触れていたからだろう。
数々の状況証拠を思い出し、怒りと羞恥で真っ赤になりながらカリルはシリアに問う。
「……あなたの寝顔があまりに愛らしかったので。」
にっこりと笑って平然と答えるシリアの表情が、カリルにはにやりと笑ったように見えた。
怖くなって思わず身を引いた彼女の手首を、シリアが素早く捕らえた。
そのままベッドに膝を付き屈み込むと、カリルの手を強く引く。
一気に抱きしめられるような体勢に持ち込まれて、ときめきよりも恐怖心が先行する。
「や、やだ! 離して!!」
悲鳴を上げるカリルの耳元にシリアが低く囁く。
「カリル。あなたを愛しています。」
動きが止まる。
「私と……結婚していただけませんか。」
そう言って至近距離で見つめられて、カリルは心が揺れた。
夢にまで見たようなプロポーズの言葉を紡ぎながら、夢にまで見た深く美しいエメラルドの瞳が私を見つめている。
そんな夢にまで見たような状況に思考回路の処理速度がついて行けず、どうすればいいのか分からなくなったカリルは一瞬視線を逸らした。
その瞬間、強烈な痛みの信号が脳内に滝のように流れ込んできて、カリルは急激に現実に引き戻された。
「痛いっ!!」
シリアに掴まれた手首が、異常なまでの力を受けて悲鳴を上げていた。
こんなの違う! こんなのプロポーズじゃない! こんな、こんな暴力を受けながらされるなんて……!
痛さと怖さで涙が出そうになりながら、カリルは空いているほうの手で闇雲に抵抗した。
しかし所詮は女の細腕。あっという間にシリアに拘束される。
反射的にシリアを見ると、その瞳は色を変えていて。透明で鮮やかだった瞳が、暗く鈍い光を放っている。
「カリル、確かに急で驚かれたかも知れませんが、どうか怖がらないで下さい。大丈夫です。何があってもあなたを守ります。必ず幸せにしますから。」
その唇から零れる言葉は相変わらず甘い響きを伴っていて、そのギャップが途方もなく怖かった。
ゆったりと微笑んだ彼が、そっと顔を近づけてくる。
いやだ! キスされるっ!
その瞬間カリルは何も考えず、ただ拒絶していた。
「やだ、やだ、やめて、離して……!」
その明らかな拒否の言葉に反応して手首を掴んでいる手に更に力が込められ、カリルは激痛のあまり涙を滲ませながら叫んだ。
その悲鳴が聞こえた瞬間、リュオは頭の中が真っ白になった。
何も考えられず、ただカリルを助けなくてはいけないという感情だけが渦巻く。
慌ててドアノブを回すが、鍵がかかっていて開かない。
早くしないと、カリルが……!
「セロイ!大変だ!起きろっ!!」
焦ったリュオは向かいの部屋にそう叫ぶなり、カリルの部屋のドアにその身体を思いっきりぶつけていた。