女神の旋律 第三章 その12
 思いのほかぐっすり眠ったカリルは、実にすっきりとした気分で目覚めた。
 ゆっくりと瞳を開けて横を見ると、リュオが昨夜と同じ位置に座ったままうとうととしている。
 あ……本当にずっといてくれたんだ。
 別に途中でいなくなってしまうと疑っていたわけではないが、カリルはその姿を確かめて少しほっとした。
 物音を立てないようにゆっくりと身を起こしたが、布団の擦れる音に反応してリュオがぴくりと身体を震わす。
 一瞬の間をおいてから素早く上げられた顔は寝起きとは思えないほど強張っていたが、カリルが何の問題もなくこちらを見つめているのを確かめると、安心したように緩んだ。
 「……カリル……起きたのか? もう朝……か。」
 眠そうな少し掠れた声でリュオが目を擦りながら呟くが。
 トントン。
 ドアをノックする音が聞こえて、反射的に剣に手を掛け振り返った。カリルが一瞬震えて身体を硬直させたのを、背中で感じとる。
 「誰だっ!?」
 誰何する声は完全に覚めていて、答えによっては今にも飛び掛りそうだ。
 「……カリル様? もう起きていらっしゃいますか?」
 部屋に充満した緊張感を溶かしたのは、慣れ親しんだ侍女の声だった。拍子抜けして緊張を解くと、カリルとリュオはお互いに苦笑して相手を見やる。
 「……えっと、スイラン? 起きてるよ。」
 そう答えるとドアがゆっくりと開いて、いつもと同じように穏やかな笑みを浮かべたスイランが顔を出した。
 「おはようございます、カリル様。あ、リュオさんもおはようございます。昨夜はありがとうございました。」
 リュオの姿を認めると、にっこり笑った後深々と頭を下げる。
 「いや、別に、そんな、た、大したことはしてないからっ……。」
 冷静に考えてみると昨夜の自分の言動がかなりこっぱずかしいものであったことを思い出し、頬を紅潮させて視線を逸らしながら慌てて手を振るリュオ。
 スイランはリュオの様子を見て再び柔らかい微笑を浮かべると、彼の瞳を覗き込むように顔を近づけて続けた。
 「でもカリル様、元気になったみたいですし。リュオさんのお蔭です。リュオさんにお任せして本当に良かったと思ってます。」
 ダメ押しのように言われて、リュオはもちろんこう言うことしか出来なかった。
 「あ、ああ……。」
 スイランのにこにことした満足そうな微笑みに、リュオはがっくりと肩を落とした。
 朝食までの間に少しでも睡眠をとると言うリュオを見送ると、スイランはくるりとカリルへと向き直った。
 ぼーっとこちらを見ているカリルに視線を合わせ、てきぱきと指示をする。
 「じゃあ、カリル様、服を用意しておきますのでお顔を洗ってきてくださいね。」
 タオルを手に押し付けてカリルを洗面所へと送り出すと、クローゼットの大量の服の中からシンプルなグレー地にチェック柄のスカートと白っぽいニットを選び出す。
 洗面を終えて幾分すっきりした表情で戻ってきたカリルが、用意された服を見て聞いた。
 「スイラン、この服……何処から来たの? 私のじゃないよね。」
 昨日街で購入した服以外では、手持ちの服は替えの下着やシャツ程度である。
 見覚えのない服の登場に訝しげな様子のカリルに、スイランは満面の笑みで答えた。
 「これはこの部屋のクローゼットから出したものです。シリアさんが、昨日のことのお詫びに何でも好きなものを持って行って欲しいとおっしゃったので。」
 「ふーん……まあ、いいや。」
 納得が行くような行かないような微妙な表情を浮かべたカリルだったが、貰えるものは貰っておこうという持ち前の意地汚さを発動してあっさりと服を着替える。
 ついでに引き出しから瑠璃色の涙型の宝石をあしらったイヤリングと、翼のような模様が細工された銀のペンダントを選んで身に着けた。服がいいならアクセサリーだってきっと貰っていいはずだ、という手前勝手な論理に基づいた行動である。
 鏡台の前に腰掛けると、スイランがいそいそと寄って来てカリルの髪を梳かし始めた。
 「ところでカリル様……。」
 手の動きを止めずにスイランが話しかける。
 「もうご気分はよろしいんですか?」
 大丈夫そうだという確信に満ちた声で問われて、カリルは何でも見通されてるような気持ちになりながら答えた。
 「うん。寝たらすっきりした。」
 鏡の中で瞳を合わせて言う。
 「そうですか。それは良かったです。リュオさんのお蔭ですね。」
 スイランににっこりと鏡越しに微笑みかけられて、カリルは一瞬びくりとする。
 「……別に、リュオは関係ないし。」
 少し俯きながらぼそりと呟くカリルに、スイランは何の邪気もなさそうなのんびりとした声で言う。
 「そうですか? リュオさんが何かしてくれたからぐっすり眠れたんじゃないんですか? ずっと傍に座って起きてて下さったみたいですしねぇ。」
 「……ただ、ぼーっと座ってただけ、だし。何も、してくれてないってば。」
 「ふーん。でもリュオさん優しいですから、カリル様を慰めてくれたりしたんじゃないですか?」
 「……そ、そんなことないし。黙って、座ってただけ。」
 「リュオさんはカリル様のために一晩中起きてて下さったみたいですよ。なんか……素敵ですよね。嬉しくないですか? そこまでしてもらって。」
 「……ぜ、全然。別に私が頼んだわけじゃないしっ。」
 カリルは俯いた頬を薄っすらと染めて何かに耐えるように必死で言葉を発する。スイランは楽しそうに微笑むと更に言葉を重ねた。
 「ところでカリル様、このイヤリング素敵ですね。よくお似合いです。」
 いきなり話題を変えたスイランの真意が掴めずに、顔を上げてしまうカリル。鏡の中のスイランはいつもと同じようにこにことしていて、何を考えてそんなことを言い出したのかまるで分からない。
 「綺麗な宝石ですね。海の色とも空の色とも違うし……でも見てると癒されるような深くて綺麗な色です。どうしてこれを選んだんですか?」
 カリルの耳元の石に触れながらスイランが言う。
 「べ、別に特に理由なんてないわよっ……。」
 戸惑いながら答えるカリルの瞳を鏡越しに見つめ、スイランは更に畳み掛けた。
 「そうですか? この色が好きだからじゃないんですか?……リュオさんの瞳と同じ色で、安心するから。」
 一瞬にして顔を真っ赤にしたカリルを見て思わずにやりと笑ったスイランだったが、次の瞬間勢いよく振り返ったカリルに何かを目に浴びせられて悶絶した。
 「ぎゃあーーーーーー!! 目が、目が痛いーーー!!」
 刺激に反応してぼろぼろと涙を零すスイランに、仁王立ちになったカリルが言い放つ。
 「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!! スイランの癖に!!!」
 手に持った化粧水のスプレーを前にぐいっと突き出して少し復活しつつあったスイランの目に再び噴射する。
 「痛い痛い痛いーーー! カリル様やめてくださいーーー!!」
 「リュオなんか関係ないって言ってるでしょ!! 何度言ったら分かるのよ、スイランのバカ! これに懲りたら二度と私にふざけた口きくんじゃないわよ! わかった!?」
 「分かりました! カリル様分かりましたから!!」
 再びスプレーを目の前に近づけられて、即座に答えるスイラン。
 「ふんっ。分かればいいのよ。分かれば。」
 それを確認するとカリルは鼻を鳴らしてドスンと椅子に腰掛け、スプレーを鏡台の上に戻した。
 「カ、カリル様……目を洗ってきてもいいですか?」
 とめどなく涙を流しながらもようやく立ち上がったスイランが恐る恐る聞く。
 「行けば。」
 足を組んでふんぞり返った姿勢でカリルが頷くと、スイランは涙を手で拭いながらカリルに背を向ける。
 そのまま洗面台へと向かう彼女の表情は、泣いているにもかかわらず嬉しそうに微笑んでいた。
 スイランに起こされてカリルと三人でリュオが食堂に向かうと、美味しそうな食事が用意されたテーブルの前にセロイが悠然と座っていた。
 三人の姿を認めると、軽く片手を上げる。
 「おはよう。……カリル、もう大丈夫か?」
 「うん。大丈夫。」
 おはようございます、と頭を下げるスイランの横でカリルが頷く。
 「そうか。それは良かった。」
 安心したように頷くセロイが、ちらりとリュオを見やる。
 「……何だよ。」
 一瞬にやりと笑われた気がして、リュオはむかついてセロイを睨む。
 「いや、リュオには何も言ってないが?」
 私は何も知りません、とでも言うようにきょとんと返されて、リュオは何だかまた遊ばれているような気がして憮然とした。
 「ところで、これからどうするかなんだが。」
 とりあえず食事を終え優雅に温かなお茶を飲んでいると、セロイが声を上げた。
 三人の注意が自分に向けられたことを確認すると、再び口を開く。
 「さっき地図を貰って見たんだが、ここからだと街道をこのまま進んで国境を越えるか、西へ向かう街道を使ってクレマチス国内を旅するかどちらかになる。カリルのことを考えると早く国境を越えるべきだと思うんだが、どう思う?」
 問いかけられて、スイランは少し思案してから答えた。
 「そうですね……やはりいつまでも国内に居たらいずれ発見されてしまう可能性は高いと思います。」
 スイランの答えは予測済みだったのか、セロイはうんうんと頷く。
 「そうだろうな。だからこのまま国境を越えてリションに入り、とりあえずクリアルヌを目指そうと思う。」
 「そうですね……それがいいと思います。」
 あっさりと賛成を示すスイランと、我関せずでお茶に砂糖を入れてくるくる掻き混ぜているカリルを見て、リュオは浮かんだ疑問を口にした。
 「でも……こいつら旅券持ってるのか?」
 国境は国が発行した旅券を持っているものしか越えられない。
 仕事で複数の国を行き来する必要のあるものは、事前に国または街に旅券発行届を出して旅券を作成してもらう。国境を越える際はこれを見せ、通った門には旅券の番号と持ち主の名前が記録される。
 セロイとリュオはこの旅券を、セロイの国で発行してもらった。身分は偽ってであるが。このため今までのところ何の問題もなく国境を越えてきている。
 だが、家出してきた王女&一介の侍女が旅券を持っているとは思えない。
 もちろん道なき道を行けば旅券を見せずに国境を越えることは可能である。しかし、普通の道で既に音を上げているカリルが山越えなど出来るはずがない。
 セロイはリュオの疑問の声に頷くと、スイランに目で問いかける。
 「……持っていません。」
 肩を落として答えるスイラン。しかしセロイは困った顔一つしない。
 「だろうな。そこで、だ。俺に一つ提案があるんだが。」
 「何だ? 名案か?」
 セロイのもったいぶった言い回しにじれて、リュオは少しイラッとした声を出す。
 「いや、名案かどうかは分からんが……おい、ちょっとこっちに来てくれ。」
 リュオの子供っぽい態度にセロイは苦笑すると、厨房に続くドアに声をかけ誰かを呼んだ。
 訝しげに顔を上げたカリルと、スイラン、リュオの見つめる中、猫背の男が食堂へ入ってくる。
 その男を指し示すと、セロイはその提案を明かした。
 「こいつに旅券を作ってもらおうかと。」
 「……シリア……?」
 思わず疑問符がついてしまうほど、その男は面変わりしていた。
 輝きを失った暗緑色の瞳に、かさついた唇。頬は一晩でげっそりと痩せこけたようで無精髭が生えているし、目の下には青黒い隈が浮かんでいる。艶やかだった漆黒の髪はぱさついてまとまりがなく、優雅だった立ち振る舞いも見る影もない。背を丸め所在無く立ちすくむ姿はとても同一人物とは思えなかった。
 彼の身に一体何が起こったのか。というか、セロイは一体どれだけ酷いことをしたのか。
 という恐ろしい疑問が頭をよぎり、カリルとリュオは震えながら目を合わせた。
 「シリア、ちょっと頼みがあるんだが。」
 「……なんでしょうか、セロイさん。」
 二人の驚愕した様子を全く意に介さず平然とシリアに声をかけるセロイ。それに答えるシリアの声は昨日より数段へりくだっていて、しかも弱々しく張りもない。
 「カリルとスイランの分の旅券を手配して欲しいんだ。お前の会社の従業員ってことにして。」
 その手があったか、とリュオは思わず納得した。
 シリアは各国を行き来する貿易業を営んでいる。当然従業員は各国を陸路または海路で飛び回ることとなるため、責任者であるシリアが従業員の旅券をまとめて街に申請することがある。個人で申請すると審査に時間がかかることもあるが、シリアの会社のように大きく信用のある会社の従業員として申請する場合、責任者が保証人のような役割を果たすため通常より審査が簡単になることが多い。
 「お前が申請すれば一日か二日で旅券が発行されるだろうし、こちらの身分もうるさく問われないからな。」
 貨物船の乗組員などはほとんど出稼ぎや流れ者のつく職業であるため、身元などいちいち照会していられないからだ。身分を明かさずに旅券を手に入れるには一番いい方法かも知れない。
 しかしシリアは渋った。
 「た、確かに私が申請すればすぐに許可が下りると思いますが……嘘の申告をするというのは……。」
 俯いたままぼそぼそと言った後セロイの方をこっそりと伺う。
 リュオはその時、セロイの瞳がぎらりと光り、口元がニイッとつりあがるのを、確かに見た。
 「いえ、そのぐらいすぐに出来ると思います。早速手配して参ります。」
 一気に青ざめたシリアが汗をかきながら早口で言う。そしてその場からさっさと逃げ出そうとするのを、セロイが低い声で止めた。
 「おい、ちょっと待て。」
 「……ななななな、何でしょう?」
 かっこ悪く裏返った声で悲鳴を上げるように声を発するシリア。セロイが横目でじろりとシリアを見る。
 「お前、カリルに何か言うことあるだろう?」
 「は、はい!」
 そう慌てて答えるなり、カリルの傍に移動しいきなり床に膝を付いた。
 「昨夜は本当に申し訳ないことを致しました! 私のような卑しいものがあなたに心奪われるなんて分不相応なことを致しました。申し訳ありません! どうぞ私をあなたのお気の済むように如何様にもなさって下さい!!」
 床に額を擦りつけながら謝る姿に、お茶のカップに口をつけたままあっけにとられるカリル。
 「え……えっと……あ、この服貰っていい?」
 シリアに会ったらぶん殴ってやろうと思っていたカリルだったが、あまりの卑屈さにそんな気も失せてしまった。
 カリルにしては至って控えめな要望を口に出すと、シリアは更に平伏する。
 「もちろんです! 服だけに限らず、この家にあるものは何なりとお持ちください! 足りないものがございましたらご用意いたし致しますので、いくらでもお申し付けください!!」
 「あ……そう。そ、それはどうも。」
 何だか気圧されてしまうカリル。
 「とんでもありません! あなたに対して犯した罪を考えればこのくらい当然のことです! 本当に申し訳ありません!」
 「いや、もう、なんていうか……別に、いいよ。もう。」
 この気詰まりな状況に耐えられなくなって思わずそう言うと、シリアはカリルを崇め奉らんばかりになった。
 「なんという慈悲深いお言葉……! ありがとうございます……!」
 カリルが「もうどうにかして」と言いたげな瞳でセロイを見ると、この状況をにやにやと笑いながら見ていたセロイがぐっと表情を引き締めて重い声を発した。
 「カリルが心の広い人で良かったな。よし。じゃあ旅券の手配してきてくれ。」
 「は、はい!!」
 弾かれたように立ち上がると、物凄いスピードで食堂を去っていくシリア。
 だから、一体セロイはシリアにどれだけ酷いことをしたんだ。
 シリアの走り去った方向とセロイを交互に見て、リュオとカリルはやっぱり震えながら顔を見合わせたのだった。
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