女神の旋律 第三章 その6
 「……まあ、それはそれとしてだな。ちょっとカリルとスイランに相談があるんだが。」
 なんとかスイランが場を治めてくれたのを見て、セロイが女性陣二人に声を掛ける。言われてスイランはセロイの方に向き直り、話を聞く体勢をとる。
 「買い物が早く終わったんでな。俺たちで宿を探して置いたんだが。」
 「ありがとうございます。」
 スイランが深々と頭を下げる。よく気のつくセロイに感謝しっぱなしだ。しかしセロイは彼女に向かって困ったように微笑むと、更に続ける。
 「いや、探したのは探したんだが……宿屋に空きがなかった。」
 「それは……困りましたね。」
 眉根を寄せるスイラン。さすがのスイランも疲れている。今日こそは、そんなにふかふかではないかも知れないが、少なくとも土よりは軟らかいベッドの上で眠れると思っていたのに。
 第一カリル様が……
 「えーっ! もしかしてまた野宿なのー!?」
 やっぱり。そう言うと思いました。
 ふぅーっとため息をつくスイラン。
 カリルの疲労もピークに達している。元々がお城のふかふかのベッド以外で寝たことなどない御仁である。
 洗い立てのシーツと枕カバー、最高級の羽毛を使用した布団と枕、吸湿効果が高く肌触りのよい夜着。当たり前のように与えられていた睡眠環境が一変したのである。当然眠りは浅くなり、疲れが取れないまま朝を迎えることになる。
 そのことにもちろんブーブー文句を言いつつも、カリルにしてはよく我慢してここまで旅をしてきた。別にカリルが旅というものの現実に気づき、暖かい毛布に心地よいベッドなどと言う夢を捨てたからではない。町に着けばベッドで眠れるからもう少しの我慢だ、とスイランが諭したからである。
 「スイランの嘘吐きー! ベッドで寝たいー! もう私一人でもいいから宿屋に泊まるー!!」
 「カリル様! それは絶対に駄目です!! 大人しく諦めてくださいっ!」
 「やだーーーー!!」
 今まで我慢してきた分溜まっていた鬱憤が爆発したのか、喚きながら脚をバタバタとさせるカリル。はっきり言って駄々っ子以外の何ものでもない。
 スイランも必死で宥めるが、カリルは全く聞く耳を持たない。スイランだってベッドで寝たいのだ。それを仕方なく諦めて我慢していると言うのにこの我が儘姫ときたら。困り果てたスイランは救いを求めるようにセロイを見上げ、その視線に答えて苦笑しながらもセロイが口を開いた。
 「カリル、すまないが……」
 「失礼ですが、お泊りになるところをお探しですか?」
 突然頭上から降ってきた言葉に、カリルたちは勢いよく声のした方向を振り返った。
 声の主は背の高い男だった。そしてカリルは一瞬にしてその男に目が釘付けになった。
 歳は20代後半ぐらいだろうか。わずかに癖のある少し長めの黒髪。すっきりとした鼻筋に薄い唇。濃いグレーのズボンと上着は身体にぴったりと合っていて、おそらくあつらえたものであろう。皺一つなく糊付けされたピンストライプのシャツといい、明らかに金持ちの身なりである。
 しかしカリルの目を奪ったのは、彼の瞳だった。
 ゆったりと微笑んでいる切れ長の目。その瞳は濃く透明な緑だった。深く鮮やかな宝石のような瞳がただ一点、カリルの瞳を見つめている。
 エメラルドの瞳!!
 見つめ合いながら、カリルは心の中で叫んだ。同時にもの凄い勢いで言葉の本流が頭の中に流れ込む。
 エメラルドの瞳二重で切れ長凄い美形黒髪艶があって綺麗サラサラー背も高いでも高すぎなくて私とのつり合いもちょうどいい歯が白くて歯並びもいい笑顔が素敵身体も引き締まってそう足長い声も素敵低めでカッコいいこの人だわこの人しかいないこの人が私の運命の人だわっ!!
 キラキラというかギラギラというか、とにかく瞳を輝かせて一心に謎の男を見つめるカリル。一方、突如現れた男の存在とカリルの反応にあっけにとられる三人。暫くその場が静止する。しかしそこは我らがリーダー、セロイがいち早く我に返り、事態を把握しようと男に声をかけた。
 「……失礼だが、どちら様だ?」
 怪訝そうなセロイの声に口元を綻ばせると、男は答える。
 「ああ、これは名乗りもせずに失礼致しました。私は貿易業を営んでおります、シリア・ヴァーンと申します。」
 慇懃にセロイたちに向かって頭を下げると、先を続ける。
 「立ち聞きするつもりはなかったのですが、宿屋をお探しのようでしたので声を掛けさせていただきました。よろしければ我が家にお泊りになりませんか? 大したものではありませんがが、夕食もご用意させていただきます。ベッドの方も、少なくとも野宿なさるよりはましなものをご用意できるかと。」
 「えっ!」
 本当ならばあまりにもありがたい申し出に、スイランが思わず声をあげる。しかし聡明なセロイはそれにすぐに飛びついたりはしなかった。
 「大変ありがたいお申し出だが、何故見ず知らずの俺たちにそのようなことを言う? 俺たちがあんたを痛めつけて金奪って逃げるかも知れないのに?」
 頬杖をつき斜めに男を見上げながら、半ば皮肉げに問う。男はそんなセロイに対してゆるりと微笑むと、何故かカリルを見つめて答えた。
 「私は……ただあなたのような美しい女性が寒い戸外で野宿するなどということに耐えられないのです。」
 「……っ!」
 美しい女性って……私のことだわ!!
 シリアの気障ったらしいセリフに、カリルの感動のボルテージがハイスピードで上がっていく。それに追い討ちをかけるかのようにシリアがその美しい顔に微笑を載せると、ボルテージは一気にMAXにまで到達し、カリルの脳内で何かのスイッチが入った。
 カタリ、と椅子から立ち上がると片手を頬に添え、リュオたちが今までに見たこともないような極上の笑みを浮かべるとシリアを見つめて言う。
 「そんな……お上手ですのね、シリアさん。」
 ……誰!?
 突然聞いたこともないようなしとやかな声と言葉遣いでしゃべり出したカリルを、目を丸くして見つめる三人。リュオは椅子からずり落ちそうになり、セロイは思わず肘がガクッとなり、スイランに至っては口が開けっ放しだ。だが、カリルの本性を知らないシリアは動じることもなく、低く柔らかな声音でカリルに話しかける。
 「シリア、と呼んでください。お世辞ではなく本心です。あなたのように輝くような美しさを持った女性は見たことがありません。」
 「……まあ、お世辞でも嬉しいですわ。私はカリルと申します。カリル、と呼んでくださいませ。」
 柔らかな頬を薄桃色に染め、笑窪を見せて微笑むカリル。
 「カリル、ですか。音楽的な響きの美しいお名前ですね。愛らしいあなたによくお似合いです。」
 歯の浮くようなセリフにうんざりとしたような顔をするセロイ。カリルの変貌の理由もなんとなく推察出来たので、咳払いを一つして、カリルに呼びかける。
 「盛り上がってるところ悪いんだが。俺たちのことは紹介してくれないのか?」
 その低く笑いを含んだような声に、カリルは一瞬通常モードに戻って怒鳴りつけそうになる。が、目の前の美男子のことを思い出し、再び猫かぶりモードを発動する。
 「……ごめんなさいね、セロイ。ちょうど今紹介しようと思っていたところよ。シリア、こちらが……。」
 「カリルの兄、セロイだ。こっちがリュオ。」
 カリルが本当のことをポロッと言ってしまう前に口を挟み、恐ろしく不機嫌そうなリュオの頭をぺしぺしと叩きながら自己紹介をする。そのままスイランに視線を送ると、察したスイランが慌てて立ち上がり、
 「あ、私はカリル様の侍女のスイランと申します。」
 ぺこりと頭を下げる。
 「ところで、本当に我が家にお泊りいただけませんでしょうか? 部屋も余っておりますし、私は独り者ですのでご一緒に夕食を召し上がっていただければ一人で夕食をとるという寂しさも紛れます。どうぞご遠慮なさらずいらしていただけますと、私も嬉しいのですが。」
 独り者! ってことは結婚してないってことよね! ますますいいわ!!
 少し淋しげな瞳でカリルを見つめながら言われたセリフから、重要な情報を抜き出すカリル。最早断るなどと言う選択肢は全く頭に無い。
 「親切なお申し出ありがとうございます。喜んでおもてなしに預からせていただきますわ。」
 「え、カリル様、そんな、勝手に……」
 「おい、カリルっ……!」
 目の前の男に目が眩んで勝手に話を進めるカリルに抗議の声が上がる。しかし、彼らが声を発するや否や、カリルはくるりと振り返ると、物凄い形相で二人を睨みつけた。もちろんシリアの位置からカリルの顔は見えない。
 「なんか文句あるって言うのっ!?」
 と言う声が聞こえた気がして、一瞬二人が沈黙する。その隙をついてカリルは再びシリアに向き直ると、胸の前で両手を組み、にっこりと微笑んだ。
 「他の者もありがたくお受けしたい、と申しておりますわ。」
 「それは良かった。では早速参りましょう。拙宅までご案内します。」
 そう言うなりカリルの荷物をさっと手に取り、カリルを出口へと誘う。
 「……どうしましょうか?」
 「……まさかカリルだけ泊まらせるわけにもいかないだろう。ついてくしかないな。」
 エスコートされながら立ち上がり歩き出したカリルを見て、セロイとスイランは顔を見合わせ相談する。
 「それにしても、あいつはどうも胡散臭いな。」
 戸口でカリルに微笑んでいるシリアに目をやり、セロイが呟く。親切は嬉しいのだが、シリアがカリルばかりを見ていたのが気になっている。同じ男として、セロイはある直感を抱いていた。シリアがカリルに興味を持っている、もっと平たく言うならば狙っているのではないかという疑いである。
 「……ええ。カリル様が心配ですね。」
 スイランも似たような懸念を抱いている。それに、理想通りの男の出現に舞い上がったカリルがシリアと結婚するなどと言い出すのではないか、という心配もあった。
 「スイラン、早く行きましょう。」
 「スイラン早くー!!」ではないカリルの声。その声に急かされて、二人は仕方なく腰を上げた。そして始終そっぽを向いて不貞腐れていたリュオを引きずり、二人の懸念も知らずご機嫌のカリルの後を追ってシリアの屋敷へと向かったのだった。
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