女神の旋律 第三章 その7
ドアの向こうには夢にまで見た空間が広がっていた。
清潔で掃除の行き届いた部屋。
大きな窓には繊細なレースのカーテン。
木製の大きな鏡台の上にはブラシやコットン、可愛らしい瓶に入った小さな香水。
クローゼットの中にはワンピースやドレス、ヒールの高い華奢な靴やショール。
薄いピンク色のカバーがかかったソファセット。
そして何より、セミダブルぐらいありそうな大きな天蓋つきのベッドとふかふかの布団。
「どうぞこちらをお使いください。」
シリアに示されて、カリルは興奮する胸を抑えながら部屋に一歩入る。
今すぐベッドに走って行って飛び乗りたかったが、シリアの手前、そんな子供染みた行動は我慢する。
「こんな素敵なお部屋……いいんですの?」
感極まったような声でカリルが振り向いて問いかけると、シリアは間髪入れずにっこりと笑って答える。
「もちろんです、カリル。」
おいおい……俺たちの部屋とは大違いだぞ。
セロイはカリルの部屋を覗いて呆れた。
カリルの向かいの部屋を与えられたのだが、その中にはシングルベッドとシンプルなクローゼットに鏡、テーブルと椅子があるのみで、はっきり言ってカリルの部屋の半分ぐらいしかない。
隣のリュオの部屋も同様で、スイランに至ってはベッドと書き物机しかないような有様だ。
「6時に夕食をご用意いたします。それまではどうぞごゆっくりお寛ぎ下さい。お湯もお使いになれますので。」
「嬉しいですわ。 何から何までありがとうございます
「いいえ、あなたのためなら大したことではありませんよ。」
にっこりと微笑み合う二人。全く周りが見えていない。二人の世界である。
「……なんて言うか、あれだな。疎外感があるな。」
「……カリル様、私たちのこと忘れ去ってますね。」
セロイとスイランがこっそりと頷きあう。その背後から、不貞腐れて一言も口を利かないまま連れて来られたリュオが、ここに来て初めて言葉を発した。
「何で独り者の男の家にこんな女々しい部屋があるんだよ。」
低く吐き捨てられた言葉は、セロイがさっきから思っていたが口にしていなかった疑問と重なっていた。
こいつ……意外に核心突くな。
ちょっと感心するセロイ。リュオのことを完全に見くびっていたらしい。
その声は酷く低く小さな呟きだったのに、シリアはくるりと振り返ると頭を付き合わせている三人に向かって穏やかに言う。
「妹の部屋ですよ。たまに遊びに来ては自分のものを置いていくので困ったものです。」
「……地獄耳だな。」
いささか出来すぎた答えに、負け惜しみのように呟くリュオ。
その言葉も聞こえてるのかも知れないが、シリアは無視して再びカリルの方に向き直った。
「では、私はこれで一旦失礼します。何かございましたらベルを鳴らして下さい。召使が参りますので。」
「ええ、ありがとうございます。お言葉に甘えてゆっくり休ませていただきますわ。」
再び二人の世界が構築される。
一瞬の静止の後、シリアは部屋を辞する。その通りすがりに三人に
「皆様も、どうぞごゆっくり。」
と、ついでのように声をかけるとゆったりと歩き去った。
その後ろ姿を、リュオは自分でも気づかないままに凶悪な顔で睨みつけていた。
食事は申し分なかった。
そんなに高級なものが出たわけではないが、温かいスープに焼きたてのパン、イシ鳥のローストと葡萄酒、デザートにフルーツまで出て、間違いなくここ数日間で一番のメニューである。
部屋に戻ったリュオは、寝る前の日課として剣の手入れをしていた。
心の中に漂っている得体の知れないもやもやを打ち払うかのようにその作業に没頭していたところ、トントンとドアをノックする音が聞こえた。
「リュオ、俺だ。」
「……開いてる。」
聞きなれた幼馴染の声がして、ドアが開けられる。
「何だよ。」
リュオは作業を続けながら、セロイの方を見もせずに問いかけた。
「いや、カリルのことなんだが……。」
セロイの言葉にリュオがピクリと反応する。が、まるで無関心であるかのような態度を貫く。
「お前も気づいてるだろう? あいつ、確実にカリルを狙ってるぞ。」
「……だから何だよ。」
相変わらず顔を背けたまま、リュオが低く言う。そんな頑ななリュオを見て、セロイは深くため息をつくと、更に続けた。
「……お前、カリルのこと好きなんじゃないのか?」
一瞬にして頬を紅くそめたリュオは、セロイに向き直って言い返す。
「な、何言ってんだよ!誰があんな奴っ……!!」
本当に分かりやすい奴だな。
セロイは内心で笑いながらも、表面は真面目な表情を作ってリュオを見つめる。
「……まあ、それはともかくとしても、だ。本当にいいのか? カリルがあいつに……奪われても。」
「……別にオレには関係ねえよ。カリルだってシリアを気に入ってるんだろ? あいつは紳士的で女に優しいからな。」
再び剣をいじりながら、どこか皮肉を含んだ声音で吐き捨てる。そんなリュオに向かって、セロイは呆れたように言った。
「あれの何処が紳士的なんだ? お前気づいてないのか?」
「……何が。」
「あいつが優しいのはカリルに対してだけだ。本当の紳士なら、スイランにだって気を使うものなんだよ。ところがあいつは、カリルの荷物は持ったがスイランの荷物には全く手を出さなかった。部屋だって、スイランの部屋は使用人部屋みたいなものだ。客人の、しかも女性に宛がう部屋じゃない。本当の紳士なら、全ての女性に敬意を示すべきだ。あいつは紳士的なんじゃない。ただの下心だ。」
きっぱりと言い放つ。どうやら、シリアの態度はセロイの信条に大きく反するものらしい。自身が女性に優しく紳士的であれ、をモットーにしているため、似非紳士のようなシリアが許せないのだろう。
「下心だって別にいいんじゃないか。カリルはシリアが好きなんだろ? 理想通りだってスイランも言ってたし。」
リュオは心に無いことを言っている自覚もないまま言う。何故だか胸がざわざわする。
「カリルはシリアが好きなんじゃない。あれは理想の男が現れたからのぼせてるだけだ。」
セロイは畳み掛けるように続ける。
「カリルはまだ恋愛の何たるかも知らないお姫様なんだ。好みに合うことと好きになることの区別もついてない。しかも、あいつはそのことをまだ自覚してないんだぞ。そんな状態であの女たらしに告白でもされてみろ。舞い上がって付き合って……最終的には傷つくぞ。それでもいいのか? お前は。」
「……。」
頑なな態度を崩さないままひたすら作業を続けるリュオに、セロイはもう一度深いため息をつく。
「だから少しは素直になってよく考えてみろ。俺が言いたいのはそれだけだ。……おやすみ。」
そう言い残すと、セロイはドアをバタンと閉めて部屋を出て行った。
リュオはその言葉すら無視するかのように、ただ黙って剣の手入れを続けた。