女神の旋律 第四章 その4
気分が悪い上に精神的ダメージも負ってしまったため一足先に宿へと向かったリュオを除く2人は、カリルの気の済むまでウォータースピードスライダーに付き合わされた。
じりじりと斜面を上っていくときのドキドキ感も、一気にすべり落ちる時の鳥肌の立つような浮遊感とスピード感もこれまでの人生において初めての感覚で、確かに楽しい。頂上で一瞬目に飛び込むリションの山々の濃い緑と海の深い青のコントラストも素晴らしい。
が、流石に10回以上もつき合わされると飽きてくる。
そんなに何回も乗って楽しいか……?
非常に冷めた気持ちでカリルを見るセロイだったが、当のカリルはこの期に及んでもまだ大はしゃぎである。
「スイラン、もう1回乗るわよ!!」
「え、まだ乗るんですか……!?」
悲鳴のような声を上げるスイランに、「当然でしょう?」とでも言いたげに大きく頷くカリル。さっきから「もう1回」と言っているが1回でやめたことなどない。
そもそも、このアトラクションはスリルを味わうためのものであって、どのタイミングで何が起こるか分かってしまっては楽しめない種類のものである。コース自体は大して複雑な構造ではないので、普通は数回も乗れば恐怖も感激も薄れてしまう。
セロイも3回目ぐらいでいい加減嫌になっていたのだが、カリルに引っ張られていくスイランが哀願するような目でこちらを見てくるのでなんとなく断り辛く付き合っている。困っている女性を見捨てられない、という普段なら誇るべき習性が今は若干恨めしい。それでなくても、セロイはカリル達の護衛として雇われている名目上、一人で待ってるというわけにはいかないだろうと思ってしぶしぶ同乗していた。
「カリル様、もう帰りましょうよ……暗くなってきましたし。」
今まで大した抵抗もせずにカリルに引きずられるままに付き合っていたスイランだったが、ここへ来てようやくカリルに逆らう素振りを見せ始めた。もう十分カリルを満足させたと判断したのか、単に自分が疲れただけなのか。だが、どういう理由か知らないが突然撤退を提案した侍女に対し、当然カリルが耳を傾けるわけがない。が。
「分かった。」
「……へ?」
絶対に文句を言い出すカリル対し何と言い聞かせるかを必死で頭を働かせていたスイランは、あまりに素直なカリルの反応に拍子抜けする。身構えていた肩の力が抜け、思わず間抜けな声を出してしまった。
「え、あの、本当にいいんですか?」
つい念を押してしまう。ここできちんと確認をとっておかないと気の変わるのが早いカリルに裏切られる可能性がある、という経験に基づいた行動である。
だが、そんなスイランの懸念も見事に空振りするほど、カリルはあっけなく頷いた。
「うん、帰ろう。お腹すいたし。」
あからさまに安堵した表情を浮かべるスイラン。やっとこの苦行から解放される予感に、セロイもほっと息をついた。そんな2人を交互に見ると、カリルは続けた。
「明日また来ればいいし。」
にっこりと笑って言われた言葉に、2人は全身を凍らせて沈黙した。
ウォータースピードスライダーに突撃する前にセロイが取っておいた宿は、クリアルヌのメインストリートから西側に3本入ったところにある中ランクの宿である。
クリアルヌで宿のグレードを判別するのは至って容易だ。主に貴族などが宿泊する最高級ホテルは南北に伸びるメインストリートにある。メインストリートとほぼ平行に東西に並ぶ2本の路には1ランク下のホテルが、さらにそれぞれ東西に1本入った路には2ランク下のホテルが並ぶ。要するに、メインストリートから東西に離れるほど宿のグレードが下がるのである。
クリアルヌを訪れる膨大な数の旅行者のために用意されたピンからキリまである宿。その中からセロイが選んだのは、高級には程遠いが清潔感は保っているというような、要するに極普通の宿だった。
そこへ向かうため3人はメインストリートを曲がって人通りの少ない路地に入り、3本目の通りを目指して歩いていた。先頭を行くカリルは夕飯のことでも考えているのか妙に足取りが軽く、その後ろからスイランが追いかけるように歩いている。セロイがトリを勤めていたが、唐突にすっとスイランの背後に近寄り耳打ちした。
「スイラン。」
「はい?」
カリルを見失わないように意識はそちらに向けたまま答えるスイラン。セロイはそのまま前を見て歩き続けるように促すと、更に低い声で言う。
「どうやら誰かにつけられているようだ。」
「えっ!?」
小さく声を上げて立ち止まりそうになるスイランの肩をそっと押し、前へ歩かせながら続ける。
「相手は3人、多分女性だ。」
「女の方……ですか?」
訝しげな表情を浮かべるスイラン。
「ああ。何の目的があって俺達をつけてくるのかは分からないが、宿まで付いてこられると困るからな。俺が対処するから、スイランはカリルを連れて先に戻って欲しい。」
「分かりました。」
コクリと頷いて土産物屋の前で立ち止まっているカリルの元へ小走りに寄って行く。その姿を確認してから、セロイはゆっくりと振り向き呼びかけた。
「先ほどから何ゆえ俺達をつけている? 出てきて説明してもらいたいのだが。」
通りに響いたセロイの声が消えて一瞬辺りが静かになる。一呼吸置いて、3つの影がその姿を現した。
セロイの大声にびっくりして立ち尽くしているカリルの横で、スイランはセロイの気配を読む感覚の鋭さに驚嘆していた。
セロイの言っていた通り、つけて来ていたのは3人の女だった。
黒っぽい無地に銀のボタンがついた上着と同じく黒っぽいスカートをお揃いで身に着け、銀色のペンダントを下げているまだ若い女達。やや年かさの背の高い金髪の女の後ろにカリル達と同年代と思われる2人が控えている。お揃いの制服は学校のものを思い起こさせるが、学校に通っているにしてはやや年がいっている。
「キリシナ様……!」
後ろの黒髪の女が小さく叫ぶのを耳にしたスイランが視線を辿ると、その先には展開についていけず突っ立っているカリルがいた。
「そこの男、キリシナ様を返しなさい!!」
金髪の女がセロイに強く叫ぶ。
「キリシナ様……? 誰のことだ?」
人違いされているのだろうか。そう思って疑問を口にしながら、早く行くようスイランに目で訴える。しかし、いち早く向こうの誤解に気がついたスイランは、行くより前にセロイに向かって必死でカリルを指し示した。それを見た女は、スイランに頷いたセロイをキッと睨みつけると更に激した口調で言い返した。
「白々しい事を言うな! キリシナ様を誘拐しておいて!!」
「誘拐!?」
突然飛び出した物騒な言葉に、思わず聞き返してしまうセロイ。どうやらセロイ達がキリシナとか言う女を誘拐したと思われているらしい。
「何を誤解しているのか知らないが、俺達はキリシナなどという女は知らない。あれは……俺の妹のカリルだ。」
「嘘をつくな!」
冷静に話せば誤解は解けるだろう。そう思って発した言葉を瞬時に切り返されて、セロイは一瞬言葉に詰まった。嘘と言われれば嘘なので返す言葉もない。
「……とにかく、人違いだ。あれは俺の妹だ。これ以上後をつけるのは止めてくれ。」
だが、気を取り直してキッパリと言い切る。これ以上は説明できないし話すことはないと判断したセロイは、女達に背を向けカリルとスイランの方へ歩み寄った。
「大丈夫でしょうか?」
不安げに女達をちらちらと見るスイラン。誤解が解けていないまま放置してきたのが心配らしい。
「いや、分からないが多分大丈夫だろう。納得はしていないかもしれないが、人違いという可能性には気づいただろう。まだ何か言ってくるようだったら、その時は少し大人しくさせるしかないがな。」
女達が静かに立ち竦んで追いかけてくる様子もないのを感じ、セロイは最後はやや不敵な笑みを浮かべながら言った。その直後だった。
「スイラン、逃げろ!!」
背後の空気が突如動くのを察知して素早く身体を翻しながら、セロイはスイランに向かって叫んだ。
「えっ、はい!! カリル様っ!」
セロイに向かって走ってくる女達を視界に入れたスイランが、一瞬の躊躇の後カリルの手を引いて走り出そうとする。
その様子を確認する間もなく完全に向き直ったセロイが、剣の柄に手をかける。
丸腰……? 丸腰でいったい何をする気だ?
女達が手に何も持たず素手のまま近づいてくるのを見て、セロイは疑問を抱いた。てっきり相手はこちらに危害を加えるつもりで動いていると思っていたからである。第一、彼女達の放つ気は明らかに穏便なものとは言い難い。
武器を構えるでもなく一心にこちらへ走り込んで来る女達。その口元が僅かに動いているのを見て、セロイは彼女達の使用としていることに思い至る。背筋を冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
こいつら……まさか魔法を!? しかし……!!
頭の中を過ぎったその考えが形を成す前に、彼女達は手を翳しその言葉を発した。
「……意識を縛り地に倒れ伏させる灰霧となれ!」
刹那、女達の手から放たれた灰色の霧が辺りを包む。逃げたはずのカリルとスイランがいないことを祈りながらセロイは直ぐに背後を振り返ったが、既に霧に包まれていて2人の姿だけでなく何も見えなくなっていた。急激に意識が遠のく感覚に必死で抵抗しながらも、セロイは地面に膝を付きそのまま昏倒した。